私は、人間の活動から遊離した宗教というものを知らない。宗教は他のすべての活動に道義的な基礎を提供するものである。その基礎を欠くならば、人生は「意味のない騒音と怒気」の迷宮に変わってしまうだろう
一人に可能なことは万人に可能であるというのが、私の常に変わらぬ信条なので、実験は私室ではなく野外で行ってきた
自由や平等が主張されると、良い意味でも悪い意味でも社会は変動常なき状態に置かれます。そうであればあるほど「不動の自己」が確立されないと、他人と比較ばかりに気をとられ、知らずしらず嫉妬や怨嫉という情念に支配されてしまうのであります。ゆえに、こうした縁に紛動されぬ「不動の自己」は、いつの時代にあっても、社会に安穏をもたらす原点であります
私は私の人格の孤絶化を、自己内部に閉じ籠もることを、自己主張を、求めたのではなかった。私は宇宙のなかに開きでることを、宇宙の内実に充満されることを、一切との交わりをもつことを、求めたのである。
自己こそ自分の主である。他人がどうして主であろうか?自己をよくととのえたならば、得難き主を得る
人間が立派であれば、どんな国家体制も良いものになるだろうし、人間が悪意にみちて互いに裏切るような間柄であれば、最も進歩した民主主義体制でも耐えられないものになってしまう。もし人間そのものに正義と誠実が欠けていれば、どんな国家体制になっても、必ずやそれが表面化するだろう